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pp.63-67

 いったいどんな力が、獣性の泥濘から文明へと押し上げることができるのだろうか? ハクスレーにとってと同様に、ダーウィンにとって、その答えは疑いの余地がないものであった。それは、もちろん、自然淘汰であった。ダーウィンがつねに言っていたように、生存への不断の闘争において、より理解に乏しい競合者たちに取って代わって、より聡明な者たちがいつも勝利を得るのだ。知性を高めることができる変種が時間をかけて維持される傾向にある。それは世代を超えて調子を上げ、全種での進展を成し遂げる。しかし批判的に言えば、この議論は、問題となった変種が遺伝的なものであり、その意味で生得的であるという条件の下のみで有効である。この条件を時間の思考の中に組み入れてみることの効果は計り知れない。1860年代と70年代には、法律と慣習、結婚と家族、宗教と信仰および経済生活という領域において、一連の明確な段階をつうじて人間の進歩を記録しようとした学術論文が大量に刊行された。ヘンリー・メインの『古代法』、ルイス・ヘンリー・モーガンの『古代社会』、ヨハン・ヤコブ・バッハオーフェンの『母権制』とエドワード・バーネット・タイラーの『未開文化』などである。しかし全ては、「人類の精神的統合」の教義――ドイツの大学者アドルフ・バスティアンに帰せられる――の上に築かれていた。この教義によれば、人間存在は、その文明の度合いにおいて国ごとに異なっているのだけれども、等しくかつ普遍的に心の能力を与えられている。それは、人類にとって共通する核となる学習課題をつうじて、あたかもいわゆる「未開の」「野蛮な」「文明の」国民が連続する発展段階――入門の、中間の、上級の――を表しているかのようだった。
 しかし彼らの間に、ダーウィンとハクスレーは、その無傷で、注意深く構築された建造物を台無しにしようと脅かす導火線を引いたのであった。なぜなら、人間の進歩を確実なものとする最良の方法とは、おしなべて、心的な資質が劣っていると考えられる人々、つまり、非白人種の貧しく、生活に困っている人たちの消滅を早めることによって、自然の手助けすることになると信じていた人々の扉を、それが開いたからである。後年この信念は、「社会ダーウィニズム」として――主にその反対者によって――知られるようになった。それは、ダーウィン自身のいとこにあたる、フランシス・ガストンが優生学の運動を始める手立てとなった。選択的な生殖管理をつうじて、人種の人工的な発展に捧げられたのである。名誉のために言えば、ダーウィン自身は、決してそのような極端なことを示唆したりしなかった。彼は、ダーウィン主義者ではなかった。それにもかかわらず、彼は教育をつうじて恒久的な進展を確実にする努力――フィッツロイ艦長のフエゴ人たちとの実を結ばなかった冒険のような――は、失敗することを運命づけられているという見方をしっかりと持っていた。『人間の由来』という著作の中で展開された、生存競争をつうじた文明発生の壮大なドラマにおいて、野蛮人たちは勝利を収めることなどなく、征服されるべき役割を演じるように定められていた。ダーウィンの多くの読者にとって、その本は、見たところ科学の権威に支えられながら、便利な物語を提供していた。それは、ヨーロッパ人の系統の人々が地球を授かる権利を持っていると説明していたし、また大陸を超えて人々にもたらされる植民地化と大量虐殺を正当化したのである。結局この物語は、近年の観念の歴史の中で最も煽動的なものの一つである、一つの語の周りに濃縮することになった。その語とは、「進化」であった。
 その爆発の中で、人類学という学問は再生した。19世紀の後半とその後、人類学はとりわけ人間進化という統一的な説明を展望したために、公に対して重要なものとなった。この進化は3つのポイントを訴えていると理解された:解剖的、人工的および制度的。そのそれぞれが、その学問の別の分野で研究された。形質人類学者は人体、とりわけ頭骨、すなわち脳と人間の知性の座の進化を研究した。考古学者は道具、建造物およびその他の人工物の進化を研究した。そして社会および文化人類学者は制度、習慣と信仰の進化を研究した。ここに、しばしば人類学の「3つの領域」と呼ばれる構成の起源があった。それは、例えば『人間の由来』が刊行された同じ運命的な1871年に設立された、人類学の最も尊敬されるべき組織の一つである大ブリテンとアイルランドの王立人類学協会の構成そのものの中に記録されている。解剖のタイプ、人工的なアッサンブラージュおよび制度的な形式が、最も未開なものから最も発達したものへと進み、包括的に類型学的な結果へと統合されるというのが、その考えであった。この時期に多くの第一級の人類学博物館が建てられ、この結果の公的な実物説明に捧げられたのである。博物館の中では、広い範囲に散らばった人々や場所から蒐集された事物が、その文化のレベルに従って集められた。しかしこのことはまた、それぞれの場所あるいは人々から事物を集めてきて、別々の類型学的な部屋に入れるということを意味した。訪問客がギャラリーにやって来ると、人間の進化の豪華な装いが、その全ての面で目の前に開かれたのである。
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pp.57-63.

 現代の学術の殿堂の中で多くの学問分野のように、人類学は理性の時代の申し子である。それは、17世紀と18世紀のリベラルな哲学者と知識人たちによる宗教教義と政治の暴政の拒否を含むアイデアの発酵の真っただ中で育ったのである。それらは、ヨーロッパ思考の歴史においては、啓蒙主義として知られるようになった運動の導きの光であった。合理的な研究、霊的な忍耐および個人の自由の理想に関わりながら、啓蒙主義の思想家は、そのことを、人間性を迷信と教義から解き放つ彼らの偉大な啓蒙上の任務だと考えた。これは高貴な仕事であったが、マイナス面もあった。なぜなら、文明の大きな物語はどこかで始まらねばならないからである。それは、人間性の偉大な向上が始まった初源的な状況を推測しなければならない。文明へと引き上げられるためには、人間はかつて未開でなければならなかったのである。このことは、この原初の自然状態において生命はどのようあったのかに関する多くの思索へとつながっていった。「卑劣で獣のようで脆い」というのが、事実上イギリスの啓蒙主義に乗り出した、トマス・ホッブスの有名な結論であった。彼の同国人ジョン・ロックは、自然から滋養を引き出す人間がいったいどの時点で、彼が得るものを、獣たちとはちがって、「所有物と見なす」ようになったのかを知りたがったのである。海を隔てた向こう側のフランスでは、ジャン=ジャック・ルソーが、自然児あるいは野蛮人の平等性と自尊心(amour propre)を賛美したのに対し、スコットランドでは、アダム・ファーガソンが理想的な人間によって享受される市民の自由のために野蛮人の自由を放棄したことがいったい何を意味するのかを考えた。
 これらの推論にはほとんど証拠がなかった。野蛮人は、アメリカおよび後にアフリカで確立される植民領地、東インドとオーストラリアにおける土着の人々にとっての身の毛もよだつような旅人の話でさまざまな度合いで肉付けされた、衒学的なヨーロッパの精神による発明であった。その当時、人間の多様性のすべての種類についてはいまだに知られていなかったし、これらの土地の住民はほんとうに人間であるのかどうかについての議論が盛んにおこなわれたのである。人間を、霊長類のすべての動物界を含む分類の枠組みの中でホモ属に位置づけるという重要な措置をおこなったのは――多くの彼の同時代人には突飛だと考えられた――偉大なスウェーデンのナチュラリスト、カール・リンネであった。しかし、この属という際立った記号が何であるのかについては、ほとんど同意が得られなかった。例えば、尻尾のある人間のような姿かたちをした生きものについての報告が流行った。それらは、人間なのだろうか?エキセントリックなスコットランド人の裁判官、ジェームズ・バーネット、別名モンボドー卿はそれらを人間だと主張した。1773年に最初に出版された『言語の起源と発展について(Of the Origin and Progress of Language)』 と題する6巻本の最初の巻で、モンボドーは、リンネの論文の中で彼が見た人間のタイプを描いている彫版を論評した(図表3)。洗礼を受けた堕天使には尻尾があった。モンボドーは喜んで堕天使を人間として受け入れた。読者の疑い深さを予想して、人間がどのようなものであるのかに慣れ親しんだ自分たちの考えに縛られることがないように、注意を喚起したのだった。読者はけっして尻尾のある人間に出会ったことなどなかったがゆえに、そのような生き物が存在しえないということなどありえなかったのである。
 モンボドーは間違っていた。解剖学的には、人間には尻尾などなかったのである。その堕天使は、16世紀のナチュラリスト、ウリッセ・アルドロヴァンティの作品から複写されており、それらの立案者―ホピウスという名で、リンネの弟子であった―-は、猫の尻尾を持つ食人者たちという寓話上の部族の一つを描いたものであると考えていたことが明らかになった。しかし、おそらくモンボドーは申し分ない理性を持ちながら間違ったのである。リンネにとってと同じように、彼は尋ねることのみによって人間を見分けることができるのだと結論づけていた。サルと人間は同じように見えるかもしれない――どちらにも尻尾がない――が、人間たちだけが自分たちが何であるのかを確かめることができる。このことは、人間が創造主によって作動する身体だけでなく、知力あるいは理性という贈り物、すなわち精神を授けられたからであると、リンネは考えた。サルには哲学者はいない。でも疑問は残っていた。この精神とは進歩するものではないか、それを持つ者は、恒常的な解剖学上の形態の範囲内で、野蛮から文明へと引き上げられるのではないのか? 脳と身体は学習の重さを持つようにあらかじめ設計されたのではないのか? 精神の進展は、肉体的な体格の改善につながるのではないのか? そうなると信じていたのは、ビーグル号の艦長であったロバート・フィッツロイであった。南米最南端のティエラ・デル・フエゴ島で停泊している間に4人の原住民の一行がたまたま乗船してきた。フィッツロイはその時決心して、彼らをイギリスに連れ帰って、イギリスの流儀で教育した。数年後に彼らは、故郷に帰って、
その言葉を広めたのである。
 もう一度同じフィッツロイの指揮の下、フエゴに戻る旅にビーグル号に乗船していたのが、若きチャールズ・ダーウィンであった。ダーウィンは彼の「フエゴへの」旅の仲間たちに好ましい印象を抱いたのであるが、彼らの精神力は、彼自身のそれにまったく劣るものではないとみなしていた。彼らは身なりがよく上品で思いやりがあったが、ビーグル号がティエラ・デル・フエゴに1832年12月に戻った時、ダーウィンは衝撃を受けた。そこで出会った原住民たちは身なりがとてもだらしなく、彼らが彼自身と同じ人間であることなどほとんど信じることができないくらいだった。これよりもみすぼらしい生き物に会ったことなどなかったというのが、彼の見立てだった。ダーウィンの日誌の説明に散りばめられたのは、「唖然とした」「胸が悪くなる」「汚らしい」「怪しい」「暴力的な」というような言葉であった。言語については、カチッという音とブーブーいう音だけであり、道徳的感覚あるいは礼儀が見当たらなかった。その遭遇の経験を、ダーウィンはけっして忘れなかった。フエゴ島の海岸で最初に一群の原住民を見た時、私たちの祖先はこんなだったのだろうか、私たちはむしろ猿やヒヒの系統を引いていないのだろうかという考えが突如として浮かんだことを、40年後に書いた『種の起源』の中で、まだ覚えていたのである。確かなことは、これらの哀れな人たちは、地球上のどこかで発見されるべき最も低い人間の状態を表しているにちがいないと、彼は考えたのである。しかし、彼はこの品性の堕落ぶりが彼の議論の力になると捉えた。その議論とは、人間とそれ程大きくない動物の間の隔たりはとても狭いので簡単に埋めることができるし、またさらに、そのことは野蛮人と文明人を分けることと原則的には何も変わらないというものであった。
 『人間の由来』は1871年に出版された。その中でダーウィンは、前著『種の起源』の中ですでに表明していた原理を人類にまで拡張しようと努めた。その試みには、矛盾がないわけではなかった。『種の起源』は、低位から行為への形態への必然的な進展を仮定することなく、多様な種類の有機的な身体がいかにしてさまざまな生命の条件に適応するようになったかに関するものだったのに対して、『人間の由来』は、最下位の動物から人間文明におけるその頂点に至るまで、特定の環境条件にかかわらず、とりわけ精神の発展に関するものであった。ダーウィンは、私たちが自らに認めている知性の力は人間だけに限られたものではなく、動物種のすべての範囲を横断するものであると確信した。最下等のミミズでさえ、原始的な知性を持っていると彼は考えた。人間と動物の隙間を閉じるにあたって、ダーウィンは人間を格下げするのではなく、むしろ動物を格上げしたのである。実際、トマス・ヘンリー・ハクスレー――動物学者、古生物学者で忠実なダーウィン主義者――は、この点に関して出版をしている。1863年に出版された「自然における人間の場所」に関するエッセイの中で、ハクスレーは、私たち自身と他の動物たちを分かつ絶対的な分割線などないというだけでなく、身体的な特質を決めることは同じように精神的な特質を決めることでもあると宣言したのである。実際に、彼が言ったように、「感情と知性の最高位の能力は、最低位の生命形態において芽を出し始めたのである」(1)。ハクスレーの生き生きとした隠喩では、高山の峰が古代の泥濘から隆起したように、文明は獣的な起源から生じたのである。

pp.52-57.

 私は科学者になるものと思われていた。しかし1966年に大学での勉強を始めた時、私は科学では何かがすごく違うのではないかと思い始めたのである。表面上の無私の原理および人類全ての利益のための知識の進展に関わっているが、科学――少なくともそれが私たちに教えられるやり方においては――は矛盾をきたし、知的に閉じており、経験からかけ離れた目標を追究することにひた向きになっていた。その頃はちょうどベトナム戦争の最中で、多くの友人の学生たちは、民主的原理についての科学のきっぱりとした放棄および巨大産業と軍事力に科学が屈服することに憤慨した。私もまた、科学研究が応用されるやり方に対していかなる責任であろうとも引き受けようとする科学の学会組織の取捨選択的な態度に立腹した。科学の学会組織にとって、科学研究の応用とは、政治家にであれ、軍人あるいは産業資本家にであれ、つねに他人にとっての関心事なのであった。しかし、私を最も悩ませたのは、科学の不動的な地位に対するまったき傲慢であった。科学が技術的な解決をうまく処理することができない問題などないというのだ。化学的な、発癌性のおよび放射性の科学の進歩の後遺症に最も直接的にさらされた人々の被害に対して、科学の反応は決まって、科学こそがそれらの治療を探りあてる確かな方法でありえる、というものだった。その頃、地球温暖化の問題はまだ差し迫ったものではなかった。しかし、そうした傲慢な過信の態度は、全地球が人類の利益のためにあると確信している地質工学の予言者たちの間に持続し、全地球を統御するという新時代の先駆けとなったのである。
 そのスペクトラムの他方の端にいるのが、人文学の様々な学問分野の研究者たちであった。彼らは、気の短い私のような学生の目には、自己満足の苛まれているように見えた。図書館や保管された資料の中に頭をうずめて、とっくの昔になくなってしまった世界の奥義の中に沈み込んで、彼らもまた、今日の人間の条件の火急の状況にうまく対応する準備ができてないように思えた。彼らにとって、生命の実在にあまりに接近するようなものは、今日経験されているので、あまりにも激しすぎるために扱うことができないように思われた。これらの研究者と科学者の間には、互いの距離が存在していた。両者の間には、一語も交わるものがなかった。このことを顧みて、広がっているように見えただけの自然科学と人文学の間の分断は、西洋の知の歴史の大いなる悲劇であると、私は確信するようになった。古典的な時代から西洋思考の目印であった、世界の中にいる方法から世界について方法、つまり自然から人文学を切り離すことに同意しながら、その分断は、ある必然性を伴って進行したのである。すでに見たように、そのことは、人間という私たちの概念そのものの中に根ざしていた。私が大学の勉強を開始した時のたんに漠然とした直観だったのだけれども、この分断が終わるというのは虫の知らせのような感覚だった。それには、私を最終的に人類学へと引っ張り込んだ人文学の自己破滅を伴っていた。私が考えたのは、人間存在と人間であることを再結合させる、二つの面を結びつけるために存在する学問領域が、しかも生きられた経験を決して見失わないやり方で、ここにあるということだった。
 達成感などなく大学で自然科学の本を読むという一年を過ごした後に、私は人類学に転向したのである。それから私は、決して振り返ることはなかった。しかし、一方から他方へのますます大きくなる関心で眺めていたのだが、人類学が乗り越えるために存在すると考えていた分割そのものによって引き裂かれている学問分野を、私はただ見ていただけなのであった。自ら社会あるいは文化人類学者、あるいはそれらと同じくらいしばしば民族誌家と称する研究者がいる。また、形質あるいは生物人類学者、あるいはそれらと同じくらいしばしば人類進化の研究者だと自称する研究者がいる。前者は、哲学と文学研究から歴史や宗教までの人文学の他の領域に精通している。後者は、進化心理学者、神経科学者、行動生物学者と古生物学者と仲良くする。しかし、彼ら二者同士ではめったに話をしないし、もし話をしても、そのことは相互の対立の深さを再発見するだけである。そうした像をさらに複雑なものにするように、あらゆる種類のその他の人類学が近年になって現れたのである。それらにはそれぞれの関心、研究の流儀および研究発表の場がある。順不同で並べれば、医療人類学者、映像人類学者、環境人類学者、認識人類学者、開発人類学者、デザイン人類学者、都市人類学者、歴史人類学者、法人類学者、コンピュータ人類学者がいる。人類学者と名乗る研究者はまた、タイトルに「人類学」がない研究領域で研究をしている。物質文化研究、博物館学、STS。初心者にとっては、この多様性はひどく悩ましいものである。その学問分野は最終的にとても多くのそれに相応しくない諸断片に破裂して、ハンプティ=ダンプティのごとく、元通りにならないのだろうか? これらの全ての人類学の後ろに、何かしらそれらをまとめ上げるものがあるのだろうか? 
 少なくとも潜在的には、これらの増えつづける糸を一つのロープに束ねるような何かがなかったならば、人類学およびそれがなぜ重要であるのかについての本を書くことはできなかった。しかし、人類学が何であるのかを理解するために、私たちは最初に、後戻りしてみて、その発端のところでの人類学的な会話に加わって、それに続く上昇と下降を追ってみる必要がある。なぜ人類学が、一つの「人間の科学」をつくるという傲慢な野望とともに、それが実際に始まったように始まったのか、またなぜそれがばらばらになってしまったのかを理解することは重要である。未来の人類学を再構築するために、私たちは過去の教訓から学ぶ必要がある。それらは、つねに肯定的なものであるということはない。ほとんどの研究学問分野は、自らの過去に誇りを持っている。それらは著名な学祖、来るべき偉大な事柄に対して礎を築いた先見的な人物をほめたたえようとする。カツラをつけた、ヒゲのある彼らの風貌が教科書のページを飾っている。しかし、人類学はそんなにいいものではない。私たちの祖先は、かなりの数の空想家、風変わりな人たち、人種主義者と頑迷な人々を含む、混ざり合った人たちであった。私たちの食器棚は、世界中の人たちから盗んで博物館に持ち帰られた、縮み首から儀礼の道具一式に至るまで、文字通り、スケルトン(骨組み)だらけなのである。私たちは、フィニッシュに向かうレースというよりも一連の正しくないスタートとして読めるような学問分野の歴史のページを満たす、頭骨計測者、宝物あさりや文化泥棒といった連中を光栄に思うことはない。広く行き渡った人類学の理解では、私たちは、私たちの多くが忘れてしまいたいと思っている過去にいまだに付きまとわれているのだ。

pp.21-25.

 これは確かに客観的な真実ではない。でもそれは、思考する主体として、私たちが自分たち自身を除外してしまう傾向にあるものの一つというよりも、私たちが十分にその一部であるものの一つである。そのように、それは、暫定的なものにすぎない。私たちはあたかもすでに知っているかのように確信をもって世界のことを話すことはできない。というのは、それに関する私たちの仮説が後で偽りになってしまったり、あるいは私たちの予測がはずれてしまったりするからではなく、世界それ自体がその構造と構成の中に決して安定することがないからである。
 それはむしろ、経験的に生成しつつあるのだ。実際のところ、私たちがその一部であるために。正確なところそうした理由のため、いつも形成されつつあるこの世界は、不思議さと驚きの恒久的な源泉なのである。私たちはそのことに注意を払わなければならない。もし、私たちがベレンズの言葉をそれに値する重さで扱う用意があるならば、これこそがベレンズが私たちに教えてくれたことなのである。それらのことで、私たちは、そうでなかったならば私たちがあたりまえに思ったままであるたくさんの事柄を疑問視するようになる。動き、話すという石をめぐるアイデアを明白に空想的なものとみなすような、現実に対する私たちのアプローチとはいったい何のためにあるのだろうか? 結局のところ、石は歩き回り、自らの重さで、あるいは水、氷もしくは海の波によって運ばれて、ガレが散らばった斜面を降下していく。また石は互いにぶつかったり、あるいはそれぞれの石が独自の音を持っていたりする。もし、話すことで、私たち人間がそこに居ることを聞きとれるほどに感じ取れるようにしている方法のことを意味するのであれば、石が鳴動することで石について言えることも同じなのではないだろうか? この意味で、石もまた話すのである。
 ものに注意を向けること――その動きを見つめたりその音を聞いたりすること――は、砕け散る波頭に乗るように、行為の真っただ中で世界を捕まえることである。サイコロがすでに投げられた世界に遅れてやって来るどころか、その姿を現す当の瞬間に、機敏に抜け目なく、それはそこにいる。その瞬間に経験と想像力は溶け合い、そして世界は生き生きとしてくる。世界生成の流れに私たちの概念を結わえつけることによって、私たちは、ベレンズのように、石とそれ以外のものも含め、ものの活性状態を目の当たりにする。しかしこのことは科学によって想像されるものとはたいそう異なった仕方で生命について考えることを意味する。ものとは、このように考えることの中にあるように思われるものの中に隠された、秘密の要素ではない。ものは世界の舞台の上で動き回っている。そのことは、むしろ、世界が存在へと成型されるように流れ、それが与えられた時間で適所に置かれることになる、物質の循環とエネルギーの流れの潜勢力として生命を考えることである。それは、生命が石の中にあるということではない。むしろ、石が生命の中にあるのだ。人類学では、ものの存在および生産のこうした理解――もしそう呼んでいいのなら、この存在論――は、アニミズムとして知られるものである。アニミズムは、ものの霊性への間違った信仰の上に築かれた最も未開な宗教としてかつて打ち捨てられたのだけれども、今日では、その圧倒的な実在の理解の中で科学にさえも勝る生命の詩学であるとみなされている。他者を真剣に受け取るとは、そういったことだったのだ。
 二人の大人――アメリカ人の教授とオジブワの長老――が石をめぐって会話したんだって? 事例は、取るに足らない、ばかげたものであるようにさえ見える。でも私があなたたちを説得しようと思ったのは、彼らの会話は、私たちが住んでいる世界に関する、その中の私たち自身の場所、実際には生命それ自体に関する根源的な問いに対して開かれたものであるということだった。もちろんそれは、人類学者たちが世界中の人々とおこなった無数の会話の中のほんの一つの例にすぎないのであるが、そのどれもが潜在的に等しく重要な問いを生む可能性がある。ハロウェルはそれ以降、多くの人類学者が今日「存在論への転回」と呼ぶところのそうした運動に関して情報を集めた。ハロウェル自身にとっては――先見にもかかわらず、彼の時代を生きた人だった――これはあまりにも遠い先の転回であった。最終的に、そして悲劇的に、彼は友人たちに背を向けることになった。彼の論文のタイトル――「オジブワ存在論、振る舞いと世界観」――が、そのこと全てを語っている。その論文の中で、首長ベレンズは匿名の老人として再登場している。そして石に対する彼の態度は、彼の文化で受け入れられた見方の証拠とされたのである。今日私たちは、たいしてそのことに満足することなどない。なぜなら、それは、かつてそんなことはありえなかったように、現代という時代が拠って立つ実存の確実性が、世界を瀬戸際にまでつれて行ってしまうことの証拠になったからである。私たちはいかに生きるのかという問いに対する別のアプローチを案出する必要がある、そしてそれは、世界を知る方法と世界の中にいることの方法の間、つまり科学と自然の間の破裂を救うことになるかもしれない。この救済法は、開放的かつ持続可能な未来に向けた道に沿って進むためにはなくてならないステップである。
 はっきりとさせておこう。私は、祖先がヨーロッパの植民者の到来以前の千年間にわたってその土地に暮らしてきた、オジブワのようないわゆる「原住の」人々がいかに生きるのかという問いに対する最も正しい答を持っていると言っているのではない。また、祖先が植民地の事業に手を染めた、いわゆる「西洋人たち」が全て間違いだったと言っているのでもない。誰にもその答はないのだ。だが私たちは、個人的な経験および他者から学んだことに基づく異なるアプローチがあり、それらには比較する価値がある。学問分野としての人類学は、この比較という運動の価値に深く関わることによって前進する。しかし比較することは、思考と実践の固定した形式を並置することではない。あたかもそれらがこれかあれかの伝統の人々の心と身体の中にすでに沈殿したものであるかのように。なぜなら、考えることは、すでにある思考の複製だけに限られるのではなく、すでになされたことに対する実践だからである。私たちが比較するのは、むしろ考えることとすることの方法なのである。それらは、その途上に投げ出された終着点をひっきりなしに追い抜いていく。これは、人間の生き方の多様性をカタログ化することではない。その会話に加わることである。さらにそれは会話であり、会話の中では、全ての参加者が変容するために立ち上がる。要するに、人類学の目的は、人間の生命の会話それ自体をつくり出すことである。この会話――この生命――は、世界についてのものではない。私が続く章で詳しく見ていくだろう意味において、それは世界である。それは、私たち全てが住む世界である。

pp.17-21.

 問われるべき問いは、ここでは、いかに私たちが住む世界を知ることができるのかという問いを超えて前進する。より根源的には、私たちにとっての世界はいかにあるべきなのかという問いである。不可解な哲学語彙では、最初の種類の問い、つまり知ることの問いは認識論的なものである。第二の問い、つまりあることの問いは、存在論的である。認識論から存在論への移行は難解に聞こえるかもしれないが、それは深く重要なものである。なぜそうなのかを示すための一つの例を挙げてみよう。1930年代に、20世紀の最も先見的な人類学者であるA.アーヴィング・ハロウェルは、北部中央カナダの原住の狩猟およびわな猟民であるアナシナアベあるいはオジブワの人々のもとで調査をおこなった。そこで彼は、ベレンズ川のアナシナアベの首長であるウィリアム・ベレンズと親しい交友関係を発展させた(図表1参照)。ベレンズは、年長者たちに教えられ、動物、植物、とりわけ石を含めた、彼の周囲の世界に長期にわたって注意を向けることによって養われた、偉大な叡智と知性を備えた人物であった。ハロウェルの説明によれば、ベレンズとの議論は深く彼自身の思考に影響を与えた。そうした議論がなされて、分かったことがある。ひと組の男女が、石という主体に戻った。そのことは、言語学者によって明確化されたオジブワ語の文法で「石」にあたる単語が、生命なき存在ではなく、生命ある存在に対して通常適用されるクラスに属するもののように思えたという観察によって生み出されたのだった。ハロウェルはそれを聞いて途方に暮れ、「私たちが見ている私たちの周りのすべての石は生きているのか?」と尋ねた。長い間考えた末にベレンズは、「いいや、でも、そういうのもある」(3)と答えたのである。その答には、後々までつづく印象を残したのだったと、ハロウェルは覚えている。しかし、ハロウェルはそれをどう理解すればいいのか分からなかったのである。
 石のように不活性な何かがことによると生きているなどと誰かがまじめに言うのは、いったいいかなることなのか? また、もし石の中に生きているものがあるのだとすると、なぜすべてがそうではないのか? こうした問いを扱う一つの方法は、ものに対して人々が取る態度には二つの種類のものがあることを考えてみることであろう。まずは、日常生活で典型的な良識のある実践的な態度がある。さらに、儀礼の機会、あるいは象徴的な連関に満ちた儀式的な自然のために用意される、信仰とイデオロギーを充満させた態度がある。1912年に最初に出版された宗教の原初形態に関する専門書の中で、エミール・デュルケーム――社会学と言う学問領域のフランスにおける創始者――は、これらの態度をそれぞれ聖と俗と呼んだ(4)。テーブルを例に挙げてみよう。私たちはふつうテーブルを不活性なものと考えるが、もし宗教的な儀式の場でテーブルがたまたま祭壇になると、それがあたかも霊的な生命力を放出するかのように、私たちはそれに途轍もない力があるとみなすだろう。そのことは、オジブワと彼らの石と同じではないだろうか? ふつう自然環境の中で出くわす石が不活性であるということは、世界中の人々にとってと同じように、オジブワにとっても明白なことであるにちがいない。しかし、場合によっては聖別されたり、またオーラや生命力が与えられたものとして石を扱う人たちにとってはそのように見えたりする石があるのかもしれない。それが、ベレンズが生きている石があると表明した時に意味していたことだったのだろうか? 彼の言明は、人々を集合的に誘導して、彼らが日常生活から想像上のことであると知っていることを現実であると受け取るように思い違いをさせている儀礼的な態度であると受け取ることができるだろうか?
 私たちの時代において、他人が言ったりしたりすることを、それが、たんなる儀礼として私たちの感性と矛盾する時、無価値であるとみなすことはとてもたやすいことである。異国の文化についての私たちの肖像画は、儀礼的な色彩で塗rこめられている。しかし、ハロウェルが知ったように、こうしたルートを辿るのは、彼の友人の知性に対する侮辱だったのである。なぜなら、ベレンズの言ったことは、学説の声明ではなかったからである。彼は、伝統によって強制され、またすべての対抗的な証拠にもかかわらず、石か生きていて年代物であると、あたかもこのことが見捨てられた結論であるかのように主張したのではなかった。逆に、ベレンズは、長い熟慮の後に、ようやく彼の判断へと達した。そして彼が苦労してハロウェルに説明したように、それは、個人的な経験に基づく判断であった。彼は、自らの意思で動き、会話によく似た音さえ生み出す石があることに気づいていた。もちろん、石がそんなことをすることがないと確信している私たちは、彼がそれを想像しただけだとか、あるいは夢想したのだと考えるかもしれない。しかし、もしベレンズが今私たちとともにいるのであれば、彼は、私たちの哲学では、経験と想像力がいかにたやすく区別されるのかを、さだめし知りたいであろう。私たちは夢を経験することはないのだろうか? 私たちの夢の世界は、私たちの目覚めている世界とそんなに違うものなのだろうか? 科学の権威が卓越した社会で育った私たちにとって、真理へと至る道は、事実と空想の区別の中にあるのだ。しかし、そうでないこともありうるのではないだろうか? 経験と想像力の和合の中に、つまり私たちが生きている世界と私たちに対して生き生きとした世界の中に真理があるのだとしたらどうなのだろうか?
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Tim Ingold Antropology: Why it matters, Polity Press (2018)のためのブログ

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